2022.12.16

文化

卓越した先見性と創造力で世界を魅了する、 “マンガ大使”手塚治虫の足跡

1963年にモノクロで放送開始されたテレビアニメ『鉄腕アトム』は1980年にカラー版が放送されました。その後もリメイクを重ねています。Photo:1980 ASTRO BOY ©Tezuka Productions

世界中で親しまれ、人々の交流の輪を広げている日本のマンガやアニメーション。その礎を築いたのが手塚治虫氏です。マンガが“国際語”となる日を信じた手塚氏の想いをたどります。

いまや世界中の人々を魅了し、日本と世界の文化交流に大きな役割を果たしているマンガやアニメーション。その礎を築いた1人が手塚治虫氏でした。普遍的な主題、誰をも惹きつける画力、読者をわくわくさせる物語――手塚氏の卓越した創造力が生み出す世界が、言葉や文化の違いを超えて、人々の心をつかんでいるのです。

手塚氏と海外とのつながりは深く、自身も海外の文化に深い関心を寄せていました。アメリカのNBCでテレビアニメ『鉄腕アトム』(英語版題名『Astro Boy』)が放送されたのは、日本での放送開始と同年の1963年、日本のアニメが世界に飛躍する先駆けとなりました。また、手塚氏は講演会や国際アニメーションフェスティバル、コミック・コンベンションなどにも積極的に参加しています。1980年には国際交流基金(JF)の派遣で、社会学者で漫画評論家でもあった筑波大学の副田義也教授(当時)と共に渡米。ニューヨークの国連本部での講演を皮切りに、プリンストンやシカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルスの大学やホールを巡り、日本の漫画についての講演会や自身のアニメ作品の上映会を行いました。

1984年には、JFの派遣でブラジルを訪れ、サンパウロ、マナウス、リオ・デ・ジャネイロで講演を行いましたが、その際に知り合ったのがブラジルのマンガ界の巨匠、マウリシオ・デ・ソウザ氏です。2人は意気投合し、ソウザ氏が来日した際には、手塚氏自ら成田空港まで出迎えることもあったそうです。その後、互いの自宅を行き来する仲となり、一緒にアニメを作る約束もしましたが、手塚氏の死去により実現はかないませんでした。手塚プロダクションの代表取締役社長、松谷孝征氏はこう振り返ります。「手塚先生は海外の人たちとの交流をとても大事にしていました。『マンガやアニメは国境を超える』というのが口癖で、作品を通じて戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えたいと考えていたのです」

1980年、手塚氏はJFの派遣でアメリカを訪問。国連本部をはじめ各地で講演活動を行いました。写真右の左隣の人物は当時、通訳を務めたフレデリック・L・ショット氏。

遙か先の未来を見通す、手塚氏の眼差しの鋭さ

1980年のアメリカ講演の多くで通訳を務めたのが、フレデリック・L・ショット氏です。作家・翻訳家・通訳として長年、日本のマンガを海外へ紹介してきたショット氏と手塚マンガとの出会いは、1970年代、国際基督教大学に留学していた時のこと。友人から借りた『火の鳥』に魅了されたといいます。数年後、『火の鳥』の英語への翻訳を打診するため手塚プロダクションを訪れたことをきっかけに、ショット氏は手塚氏との交流を深めていきます。「私は1979年頃から、先生の訪米時の通訳やコーディネーターの1人として活動していました。先生は『サンディエゴ・コミコン』というポップカルチャーの祭典に参加されたり、フロリダのディズニー・ワールドを訪問されました。先生にとってアメリカの存在は大きかったと思います。世界で最も早く自身の作品を認めてくれたのがアメリカだったのです。当時、海外にファンをもっていた数少ない日本人マンガ家の1人が手塚先生でした。きっとご自分を、マンガにおいての世界に対する親善大使とお考えだったのではないでしょうか」

フレデリック・L・ショット(Frederik L. Schodt)氏。1950年生まれ。手塚治虫をはじめ数多くの日本のマンガ家の作品を翻訳・共訳するほか、著作・講演・通訳などを通じて日本のマンガの海外への普及に貢献し、世界のマンガ・ブームの火付け役となりました。2000年に第4 回手塚治虫文化賞特別賞、2009年に旭日小綬章を受賞。2017年度の国際交流基金賞受賞者でもあります。© Frederik L. Schodt

2002年には、ショット氏が翻訳を手がけたマンガ『鉄腕アトム』の英語版『Astro Boy』が出版されます。「アトム全23巻の翻訳を通じて、先生の先見性の鋭さには驚かされました。アトムは2003年生まれ――まさに我々が生きている現代です――という設定ですが、先生はそのずっとずっと前から、我々の世界がどうなるのかを見通しておられたのです」

ショット氏は、手塚作品の魅力をこう総括します。「手塚先生は、日本のマンガ家の中でも独特の存在です。医師免許をもち、海外文学に精通し、フランスやドイツやアメリカの映画も大量に観ていた。そのことが手塚作品の物語に普遍性を与え、海外の読者にも違和感を与えないものにしています。また、『鉄腕アトム』が好例ですが、子ども向けだからといって決して他愛もない物語にはしていない。1950年代から1960年代に、10歳の少年という設定のロボットについて、子ども向けに描かれた作品でありながら、現代社会の抱える問題に通じるような、自爆テロやAI、環境破壊に関するテーマも出てきます。先生は、自分が楽しめなければマンガは描けない、たとえ商業目的であっても、楽しめなければ描き続けられないとおっしゃっていました。その知性と生来の好奇心の幅広さ、そして楽しむ気持ちが、先生を唯一無二の存在にしているのです」

JFの助成を受けて、ショット氏は日本のマンガを紹介する書籍『Manga! Manga! The World of Japanese Comics』を1983年に、『手塚治虫物語』の英訳本『The OSAMU TEZUKA Story』を2016年に出版します。一方で、椎名誠や清水義範などの小説の翻訳を手がけ、日米文化交流史についての著作を発表するなど、マンガ以外の分野でも活躍。一連の業績によって、2017年度の国際交流基金賞を受賞しました。

1983年、ショット氏が自著『Manga! Manga! The World of Japanesee Comics』のサイン会を行った際は、同書に序文を寄せた手塚氏も同席しました。© Frederik L. Schodt

『鉄腕アトム』が愛され続ける理由

年月を経ても作品が色褪せないことも、手塚作品の大きな魅力の1つです。松谷社長はこう語ります。「海外で人気の高い手塚アニメは、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』等です。1963年にアメリカで放映された『Astro Boy』はモノクロでしたが、その後、1980年のカラーテレビアニメ『鉄腕アトム』が欧米やアジア各地で放映され、それを観た人たちがのちに海外でのアニメのバイヤーになったり、アニメや漫画の国際的なコンベンションに来ていたりしています」

『鉄腕アトム』はその後も国内外で新たなテレビアニメ、映画が作られますが、「2003年頃からは、海外でも『鉄腕アトム』を見て育った層が製作に携わるようになりました」と手塚プロダクションの鈴木良美プロデューサーは語ります。「2019年の『GO ASTRO BOY GO!』(邦題『GO!GO!アトム』)ではヨーロッパやアジアのクリエイターが作品づくりの要となっています。アトムのテレビアニメとしては初となる4~6歳児をターゲットとしていて、環境問題も扱っています。『鉄腕アトム』はリメイクの過程において、製作現場も内容もグローバルに進化を続けているのです」

時代を超えて愛され続ける『鉄腕アトム』。左上から時計回りに:1963年版テレビアニメ『鉄腕アトム』(1963 ASTRO BOY ©Tezuka Productions)、2003年版テレビアニメ『ASTROBOY鉄腕アトム』(2003 ASTRO BOY ©Tezuka Productions/SPEJ)、2009年のアメリカ・香港映画『Astro Boy』(邦題『ATOM』)(2009 ASTRO BOY ©Imagi Crystal Limited)、2019年版テレビアニメ『GO ASTRO BOY GO!』(邦題『GO!GO!アトム』)(2019 GO ASTRO BOY GO! ©Tezuka Productions)。

また、『鉄腕アトム』がこれほど長く愛され続けているのは、作品の魅力もさることながら、アニメが世界のさまざまな国・地域で、現地語吹替版で放映されたことも寄与しています。鈴木プロデューサーは次のように説明します。「日本のアニメーションには古い作品でも、エンターテイメント性が高く、子どもたちにとって良質なものが多くあります。そのような作品は新興国においてはニーズが高いのですが、経済的な問題で放送が難しい状況でした。ローカライズにかかる費用(多くを占めるのは英語版から各言語への翻訳、その後のアフレコ)や、各地域が必要とする素材への変換費等がかさむからです。そのため、ある程度、地域をまとめる配給会社が介入し、映像だけでなく版権面での事業展開も見込んだ上で話をしないと、ビジネスとしてなかなか成り立たない状況でした。国際交流基金の映像事業は、上記の課題を解決してくれました。子どもたちが見ることのできる海外の放送事業者に作品を提供し、しかも製作者にも利用料を支援いただけたのです。両者のニーズを満たし、事業や作品を支えるスキームを提供してもらえたことにとても感謝しています」

日本のマンガに秘められた可能性とは

手塚作品をはじめ、世界に翻訳・放送・配信されていった日本のマンガやアニメに触れ、日本語を学ぼうと思う人も増えています。3年に1度、JFが実施している「海外日本語教育機関調査」では、2015年度と2018年度は、マンガやアニメをはじめとする日本のポップカルチャーが世界の日本語学習者の学習動機の第1位を占めています。

また、手塚作品は今や日本美術の一部としても捉えられています。2021年にJFがドイツのミュンヘン五大陸博物館と共催した「Rimpa feat. Manga」展では、アトムやブラック・ジャックなどの手塚キャラクターが琳派や若冲の名画の一場面に登場するなど、まったく新しい「現代日本画」の展示が話題を呼びました(2022年9月6日~12月4日まで京都の細見美術館で帰国展を開催)。

手塚マンガは世界各国で翻訳され、人気を博しています。左上から時計回りに:イタリア語版『陽だまりの樹』、スペイン語版『火の鳥』、英語版『リボンの騎士』、タイ語版『W3』、韓国語版『どろろ』、中国語繁体字版『ブラック・ジャック』。Photos:©Tezuka Productions

外務省が創設し、海外でマンガ文化の普及に貢献する作家を顕彰する「日本国際漫画賞」の実行委員を務めるショット氏は、マンガの可能性をこう話します。「応募作品のほとんどが、何らかの形で日本のマンガの影響を受けています。マンガは世界の『MANGA』になっていますが、そこまでの存在となったのには、日本のマンガを世界に広めることに貢献してきたJFの働きも大きいと思います。世界中の人が交流のできるジャンル、それがマンガなのです」

ショット氏の著書『Manga!~』に寄せた序文で、手塚氏はこう書いています。「私の漫画についての信念は、漫画こそ民族、国家を超越した国際語で、だれにも喜ばれだれもたのしめる偉大な文化であり、それは親善と平和をもたらすメッセージでもあるということだ。漫画の持つユーモアは高尚で知的なものであり、それによって啓蒙される強さをもっている。私は、漫画文化は世界的にますます発展していくと信ずる」。手塚氏がこの世を去って33年。その願いどおり、日本のマンガやアニメは“国際語”となって発展を遂げ、世界中の人々の関心を日本に引き寄せ、交流を促進する力となっています。

 

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