2022.12.28
対話村上春樹をめぐる「冒険」を通じて、
通いあう世界の人々の心
国際的に高い評価を受けている村上春樹作品は、小説という枠を超えて、映画や演劇、文学研究のシンポジウムや音楽公演のテーマとなり、さまざまな国際交流を生み出しています。
現代の日本人作家の中でとりわけ大きな存在感と影響力をもつ、村上春樹。1979年に『風の歌を聴け』で鮮烈なデビューを果たして以来、文学や音楽の深い知識に裏付けられた、現実と幻想が入り混じる想像力豊かな作品群は、軽やかな文体とともに、今日に至るまで世界中の多くの読者の心をつかんでいます。
村上作品は、1980年代から次々と外国語への翻訳が進み、今や50を超える言語で読まれています。外国語に翻訳された日本の文学作品は数多くありますが、現代人が抱える深い不安や苦悩を巧みに描く村上作品は、「日本」という文脈を超え、普遍性のある現代文学として世界中の読者の共感を呼んでいるのです。
翻訳者は村上作品をどう読んでいるのか?
文化を越境して読まれている「村上春樹」をテーマに、村上作品を海外に紹介している各言語の翻訳者を集めて、シンポジウムを開催することは、大きな意味があるのではないか。そのような発想をもとに、国際交流基金(JF)主催で行われたのが、「国際シンポジウム&ワークショップ 春樹をめぐる冒険——世界は村上春樹をどう読むか」(東京会場2006年3月25日から26日、札幌・神戸会場29日)でした。スラブ文学研究者の沼野充義氏、中国文学研究者の藤井省三氏、批評家の四方田犬彦氏と共に、本企画にアドバイザーとして加わったアメリカ文学研究者であり、自らも翻訳者である柴田元幸氏は、当時をこう振り返ります。「シンポジウムの企画に誘われた時は、翻訳の話を聞きたい人がそんなにいるだろうかと不安もありました。しかし、村上春樹さんに関心のある人は多いだろうし、一般にはあまり注目されない翻訳者という存在が脚光を浴びる機会をつくりたいと考え、企画に参加しました」
柴田氏の心配は杞憂に終わり、シンポジウムの開催が公表されると、抽選をしなければならないほどの参加希望者が集まりました。初日の会場となった東京大学駒場キャンパスの教室は、500人を超える聴衆で埋め尽くされました。
17か国23人の翻訳者、作家、研究者が登壇したこの日のシンポジウムは、約5時間にわたり白熱しました。アメリカの小説家リチャード・パワーズ氏による基調講演を皮切りに、「翻訳者が語る、村上春樹の魅力とそれぞれの読まれ方」と題されたパネルディスカッション、各言語の翻訳版の表紙比較、四方田犬彦氏による講演「村上春樹と映画」が行われました。
2日目には、「グローバリゼーションのなかで」と「翻訳の現場から」というワークショップが東京大学の2つの教室に分かれて開かれました。「グローバリゼーションのなかで」では、各国・地域における村上作品の人気がどのような社会的背景のもとに高まったのかを翻訳者たちが議論。そして「翻訳の現場から」では、村上春樹の短編小説「スパナ」と「夜のくもざる」の一部を翻訳者10名があらかじめ訳して持ち寄り、それぞれの訳し方を比較しながら、実際に翻訳にあたる時の心構えや手法について話しあいました。参加したノルウェー語翻訳者のイカ・カミンカ氏は、「たとえ、私にはわからないロシア語や中国語の翻訳者とでも、話してみると、たくさんの学びがあると実感しました」と話します。「たとえば、『夜のくもざる』の原文におけるひらがなやカタカナの使い分けをどう訳すかといった、具体的な問題の様々な解決方法を、お互いに学びあうことができました。どの国の翻訳者も自分と同じようなところで悩んでいると知り、翻訳者としての自分の感覚に自信がもてました」
このシンポジウムをきっかけに、翻訳者たちのネットワークもできたといいます。ポーランド語翻訳者のアンナ・ジェリンスカ=エリオット氏は「それまで、他の言語の翻訳者と交流するなんて考えてもみませんでした」と、当時を回想します。「シンポジウムで知りあった翻訳者とは、今でもよくメールのやり取りや、オンラインミーティングをします。翻訳をする時に相談できる人ができたのは、大きな変化だったと思います。デンマークのメッテ・ホルムさんと、ノルウェーのイカ・カミンカさんを呼んで、アメリカの学会やハーバード大学で村上作品の翻訳について発表をしたこともあります。そのほかにも、何人かの翻訳者と一緒に学会に出たり、論文を書いたりしました。全部、あのシンポジウムのおかげですね」
このシンポジウムを「翻訳者のお祭り」と評するのは、アドバイザーの沼野充義氏。「当時の国際シンポジウムといえば、通訳者を介するか、皆ががんばって英語を話すのが一般的。しかしこのシンポジウムは、世界中の翻訳者が日本語で話し合った。通訳を介さず、翻訳者それぞれが自身の体験を自分の日本語で語ってくれたことは、何より日本の聴衆に強い感銘を与えたと思います。まさに、翻訳者たちの1人1人のスピーチ自体がメインイベントでした」
目で、耳で楽しむ村上春樹の世界
JFは、小説という形態にとどまらない村上作品の鑑賞の仕方を提示し、その作品世界を各国の人々に楽しんでもらう企画も行っています。2015年秋には、シンガポールと韓国において、「村上春樹を『観る』&『聴く』」というコンセプトの催しを行いました。
村上春樹を『聴く』催しとしてJFが企画したのは、村上春樹の作品世界を音楽で表現するコンサート。音楽評論家の小沼純一氏監修のもと、日本とシンガポール・韓国のアーティストの共同作業によって、村上作品に登場するジャズやクラシック、ポップスの楽曲と、村上作品の文章の朗読を織り交ぜた音楽が奏でられました。村上作品を基軸として国内外の関係者が協働し、ジャンルの垣根を越えて創り上げられたこの企画は大きな反響を呼び、翌年、東京での凱旋公演へとつながりました。
一方、村上春樹を『観る』催しとして開かれたのは、蜷川幸雄演出、フランク・ギャラティ脚本の舞台「海辺のカフカ」。村上春樹の小説『海辺のカフカ』の作品世界を、美しく壮大なスケールで表現したこの舞台は、のちにフランスで開催された日本文化・芸術の祭典「ジャポニスム 2018:響きあう魂」でもフィナーレを飾っています。無数のアクリルケース(台車付き)が舞台上を縦横無尽に移動し、猫がしゃべるシーンやラストで霧雨が降ってきたりする独創的な演出が話題を呼び、連日キャンセル待ちの列ができるほどでした。観客からは「日本に旅すると同時に、心の内面の旅に誘われたようだった。もっと長く見ていたかった」など、絶賛の声が寄せられました。また、パリ公演に合わせ、国立コリーヌ劇場において村上春樹氏とフランスの10代の若者が対話する貴重な催しも開かれました。
村上春樹氏は2012年、文化活動を通じて国際相互理解の増進や国際友好親善に貢献した個人や団体に贈られる「国際交流基金賞」を受賞し、その受賞スピーチでこう語っています。
「現実の我々の世界には地理的な国境があります。残念ながら、というべきかどうかはわかりませんが、とにかくそれは存在します。そしてそれは時として摩擦を生み、政治問題を引き起こします。文化の世界にももちろん国境はあります。でも地理上の国境とは違い、心を定めさえすれば、私たちにはそれを易々とまたぎ超えることができます。言葉が違い生活様式が異なっても、物語という心のあり方を等価交換的に共有することができます」
まさにその言葉を体現するように、村上氏が紡ぎ出す物語は、異なる文化圏や言語圏の人々が交わり、心を通わせるための共通言語となってきました。2023年10月には、JFと早稲田大学国際文学館(通称・村上春樹ライブラリー)の共催で、村上春樹をはじめとする日本文学の世界的な広がりに関するシンポジウムが行われる予定です。世界中の人々を引きつける新たな「春樹をめぐる冒険」が始まります。
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