2022.10.12
文化ヴェネチアと横浜、
国際美術展に集う世界のアートと人々
世界から注目の集まる「ヴェネチア・ビエンナーレ」の日本館展示は国際交流基金が1976年から行う主要事業です。ヴェネチアへの参加を糧に、2001年には「横浜トリエンナーレ」立ち上げに参画しました。
「美術のオリンピック」とも呼ばれるヴェネチア・ビエンナーレ。1895年に始まり、国別参加方式をとるこの国際展に、日本は1952年の第26回に初参加し、国際美術界への復帰を果たしました。その窓口となったのが、国際交流基金(JF)の前身である国際文化振興会(KBS)でした。以後、日本はヴェネチア・ビエンナーレに継続的に参加し、1976年からはJFが日本館の展示を主催。世界各地から多数の人々が集う国際舞台で、日本代表作家による展示を通じて日本の最先端の現代アートを発信しています。
よりオープンなプラットフォームとしての日本館を期待
1990年代から日本館を見続けてきたのが、イタリア国立21世紀美術館(MAXXI)のアーティスティック・ディレクター、ホウ・ハンルー氏です。ホウ氏は日本館の印象を、こう語ります。「どの年の展示も、その時の日本や世界の現代アートシーンをよく反映していたと思います。1999年の宮島達男のデジタルカウンターを使用した作品は、技術から発想された創作という1990年代の空気を体現していました。また、2013年の田中功起の作品は、映像や写真がにぎやかにコラボレーションし、日本館の吹き抜けの空間をうまく使っているのが印象的でした」
2013年の日本館での田中功起の展示は高く評価され、2017年、田中はビエンナーレの企画展に招待されました。また2015年の企画展に招かれた石田徹也がヴェネチアで「発見」され、マドリードとシカゴでの個展開催につながった例からも明らかなように、ヴェネチアの評価は世界の評価へと直結しています。
ホウ氏は、日本館の今後に期待を込めてこう語ります。「本来、アートはオープン・プラットフォームであるべき。つまりアートは競争するものではなく、社会をもっと開かれたものにし、多様性を推進するものなのです。これからの日本館には、さまざまな背景をもつアーティストが、グローバルな問題をどんな角度からどう見ているのかがわかるような、意欲的な展示も期待したいですね」
ヴェネチア・ビエンナーレでは美術部門に加えて1980年に国際建築展が始まり、2001年からは2年に一度、美術展と交互に開催されています。日本は第5回の1991年から公式参加し、磯崎新がコミッショナーを務めた1996年と、伊東豊雄が務めた2012年にパヴィリオン賞(金獅子賞)を受賞しました。伊東は、東日本大震災で甚大な被害を受けた陸前高田に、被災者の憩いの場「みんなの家」をつくるプロセスを展示。この「ここに、建築は、可能か」展は、自然災害に建築がどう向き合うかを通して、建築とは何かという根源的な意味を問い直す勇気と重要さが理解され、高く評価されたことが受賞へつながりました。
ヴェネチアの経験が、横浜に生きている
森美術館特別顧問・美術評論家の南條史生氏もJFとヴェネチア・ビエンナーレとの関わりをよく知る人物です。「1978年から1986年までJFに勤務し、展示事業のプログラムディレクターを務めました。当時から、海外が見たい日本と、日本が見せたい日本とのせめぎ合いの現場におり、互いの意向がぶつかり合う中、日本の現代美術の国際化に奔走しました」
南條氏とヴェネチア・ビエンナーレとの出会いはJF在籍時代にさかのぼり、職員として1984年の日本館展示を担当したこともありました。JFを離れた1988年には、新人作家の登竜門とされたアペルト部門(現在は廃止)でアジア初のキュレーターを務めたほか、ビエンナーレ100周年の1995年には公式後援企画として、村上隆をはじめ世界数十か国の気鋭の作家が参加する「トランスカルチャー」展(国際交流基金、福武学術文化振興財団共催)をデーナ・フリース=ハンセンと共同監修。さらに1997年には日本館のコミッショナーを務め、内藤礼の展示で大きな話題を集めました。
ヴェネチアをはじめ海外の国際展への参加によって、日本のアーティストの国際的な活躍の場が広がる一方、日本においても国際的な発表の場をもつべきでは、との声が上がるようになりました。これを受け、JFが中心となって開催されたのが「2001年 第1回横浜トリエンナーレ」です。日本を含め38か国から109人の作家が参加、この時、河本信治氏、建畠晢氏、中村信夫氏と共にアーティスティック・ディレクターを務めたのも南條氏でした。
横浜トリエンナーレ2001は「現代美術を広く社会の中に位置づける」ことをテーマに掲げ、現代アートの枠組みに自足することなく、幅広い市民と交流し対話すること、さらに街の活性化に寄与することを目指しました。その結果、大規模なイベントホールや赤レンガ倉庫など、これまで美術展示とはあまり縁がなかった既存施設を含め、横浜市内各所に大型展示が出現しました。「道端のゴミまでアートに見えるわね、と年配の方が言っていたことが忘れられません。作品選定にあたっては、自分たちの目で選び、その選択と判断を見せる、ということが欧米中心の美術観への挑戦でした。開催に向けて活発な議論を重ねたことは、今に残る財産です。ヴェネチアでの経験が横浜には確実に生きています」と南條氏は語ります。
横浜トリエンナーレは国際的な発表の舞台であり、日本のアート情報を世界へ発信する場でもあります。また毎回、日本のアーティストも海外のアーティストと共に参加しています。その1人が、第1回のトリエンナーレに参加し、現在はドイツを拠点に活動する塩田千春氏です。塩田氏は当時をこう振り返ります。「建畠さんが調査でベルリンに来られた時、私がちょうどベルリンの美術館で作品を展示していて、声をかけてもらいました。27歳の時で、初めて大きな舞台で展示する機会をもらって嬉しかったのを覚えています。記憶をテーマにした作品を作っていたので、14mほどの大きなドレスに土をまぶしてシャワーを流し続けて、洗っても洗い落とせない皮膚からの記憶を表現したいと思いました」
塩田氏の言及した展示作品『皮膚からの記憶』は、圧倒的な迫力とともに多くの人の記憶に残り、同氏は現在、国際的なアートシーンで最も顕著な活動を行う作家の1人となっています。2015年にはヴェネチア・ビエンナーレの日本代表作家に選出され、世界中から集められた18万個の鍵が結ばれた赤い糸のインスタレーション『掌の鍵』は大評判となりました。さらに、2019年に東京の森美術館で開催した「塩田千春展:魂がふるえる」は66万人を動員。同展は2022年、オーストラリアのクイーンズランド・アート・ギャラリー/ブリスベン近代美術館へ巡回しました。
ヴェネチア・ビエンナーレをはじめとする国際美術展の場において、アーティストや美術界・建築界の専門家たちはダイナミックな国際交流を続けています。JFも、そのような場だけでなくその後の作家たちの進化にも併走しながら、日本美術や建築の魅力を世界に伝え続けていきます。
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