2023.03.23

文化

日常生活、若者の姿、地方の魅力……
本を通じて深まる異文化への理解

2018年11月、作家の村田沙耶香氏は、国際交流基金が企画実施した北米巡回講演会の一環でニューヨーク・ブルックリン地区の書店を訪れました。写真右から二人目は、トークイベント後に読者と歓談する村田氏。右は、翻訳者の竹森ジニー氏。

文学とは、言語による精緻な創作物。作品が翻訳され、出版され、世界中に広まっていく過程には、さまざまな人々の熱意と交流があります。図書を通じて、異なる文化や価値観が交わる。そんな機会を、国際交流基金は支えています。

「いらっしゃいませ」
店員から客に対する挨拶として、日本では日常的に飛び交うこの言葉。村田沙耶香のベストセラー小説『コンビニ人間』を英語に翻訳した竹森ジニー氏は、この作品にしばしば登場する「いらっしゃいませ」をどう訳すべきか悩んだといいます。英語の「welcome」だと不自然で「hello」にも置き換えられない。熟慮の末、竹森氏はこの日本独自の接客表現を「irasshaimasé」とそのままローマ字で表記することにしました。
何気ないような言葉に、その言語圏の文化や価値観が織り込まれていて、簡単に翻訳できないことがあります。翻訳者は、作品の背景まで深く読み込み、一語一語吟味しながら翻訳に取り組んでいます。こうして生み出された翻訳書を通して、読者もまた、その作品が生まれた背景にある文化に触れることができるのです。

翻訳出版の過程で生まれる「4段階の交流」

外国の小説を通じて、外国の人々や文化に興味をもった、という経験をした人もいるのではないでしょうか。裏を返せば、世界中で日本の本が読まれることは、日本文化が広く知られることでもあり、国際交流の基盤になりえます。国際交流基金(JF)では、図書を通じた国際交流を草創期から推進してきました。
その一つが、翻訳出版支援です。JFは設立まもない1974年から今日に至るまで、日本に関する図書の出版や日本語で書かれた図書の翻訳・出版を企画する、海外の出版社を支援してきました。その総数は、図書約1500点、翻訳先言語数50以上、出版国・地域は80近くに上り、ジャンルも多岐にわたります。かつては古典文学や学術書が多く取り上げられましたが、近年では現代文学が増えています。

JFの助成により翻訳出版された書籍の数々。(写真左上~右上、左中~右中、左下~右下順に)谷崎潤一郎『細雪』(ジョージア語版)Diogene Publishers刊、柏葉幸子『帰命寺横丁の夏』(英語版)Restless Books刊、小林エリカ『トリニティ、トリニティ、トリニティ』(フランス語版)Éditions Dalva刊、小酒井不木『死体蝋燭 他』(アラビア語版)Mahrousa for Publishing刊、川上未映子『夏物語』(インドネシア語版)Moooi Pustaka刊、夏目漱石『吾輩は猫である』(アルバニア語版)Ombra GVG刊、東野圭吾『聖女の救済』(フィンランド語版)Kustantamo Punainen Silakka刊、柳美里『JR上野駅公園口』(イタリア語版)21lettere刊 撮影:桧原勇太

翻訳出版について、スラブ文学研究の第一人者で、日本文学にも造詣の深い沼野充義氏(東京大学名誉教授)は、「まず訳すべき優れた本があり、それを訳したいと思う翻訳者がいる。それを出版したいと考える出版社があり、それを読みたいと思う読者がいる。翻訳出版は、原著・翻訳者・出版社・読者が揃って初めて成り立ちます。そして、その4つの段階それぞれで、さまざまな交流が生まれるのです」と語ります。

海外の出版社や翻訳者を主な対象として、JFでは、1993年から2016年まで、日本の新刊情報を掲載する英文ニュースレター「Japanese Book News」を定期的に発行しました。2012年から2017年にかけては「Worth Sharing-A Selection of Japanese Books Recommended for Translation」というブックレットを5号作成し、海外での翻訳出版に推薦したい図書100冊を紹介、2022年には59冊の日本の児童図書を紹介する特別号を追加しました。「Worth Sharing」の特徴は、「日本の青春」「日本の地方」「日本の愛」など、現代日本の姿が浮かび上がる切り口を提示し、選書を行っている点です。選書委員の一人でもあった沼野氏は、「いろいろな側面から光を当てることによって、日本という国がわかってくるのではないか。そういう視点から5つのテーマを決めました」と語ります。

1号あたり20作品の日本の本を紹介するブックレット「Worth Sharing」。2022年には、その児童書版である「Lifelong Favorites」が発行されました。

JF自らが日本文学の翻訳出版に取り組んだこともあります。ロシア語の現代日本文学アンソロジー・シリーズはその代表例です。2001年から2005年にかけてモスクワのイノストランカ出版社から全6冊が刊行されました。沼野氏と、ロシアの日本文学研究者・翻訳者であり、人気推理小説家ボリス・アクーニンとしても知られるグリゴリー・チハルチシヴィリ氏が共同監修し、幅広いジャンルの現代日本文学を集めました。「現代にこだわり続けるのは、本当の交流は現代の現実を知ることでしか始まらない、と考えるからです。ロシアでは、日本文学の紹介は結構盛んで、『源氏物語』や『古今和歌集』のような古典もすでに翻訳されていました。一方、日本の現代小説はあまり読まれていませんでした。そこで、1980年代から90年代にかけて活躍している比較的若い作家を中心に短編を集めた本を作ったのです」と沼野氏。企画から出版まで、日露の協働により生み出されたシリーズ第1巻『新しい日本小説「彼」「彼女」』は、市販の5000部が数か月でほぼ完売となりました。出版を機に日露作家交流事業も行われ、日本から参加した作家3名がロシアの読書人たちと対話し、ロシアの主要メディアで大きく取り上げられました。

「日本」の外側へ――翻訳が広げた作家の世界

冒頭で触れた村田沙耶香著『コンビニ人間』では、「いらっしゃいませ」という言葉をはじめ、「コンビニ」という日本独特の業態や「明太子」「おにぎり」などをどう伝えるか等、各国の翻訳者たちはそれぞれ苦労した部分があったといいます。しかし、彼らはこの作品が持つ普遍的な魅力をしっかり捉えていたようです。英語版の翻訳者・竹森氏は「英語圏でも村田さんの作品が受け入れられるはずという確信はありました。村田さんの作品の魅力は、世界を違う角度から見せていること。正常と思っているものが、実は社会に許されているものにすぎない。そういうことに読者は気づくと思います」と話します。
この作品は、現在30以上の言語に翻訳されていますが、世界各地で共感を呼び、アルメニアからは「登場人物の名前を入れ替えたらアルメニアの話だ」、ブラジルからは「日本社会は、女性にとってそんなに息苦しいのか。しかし、実はブラジルにも似たプレッシャーはある」といった読者の声が寄せられています。

JFニューヨーク日本文化センターは、ニューヨークでの村田氏の講演会をジャパン・ソサエティーと共催。写真は、会場に並べられた村田沙耶香著『コンビニ人間』(米国版、Grove Atlantic刊行)。Photo: Japan Society ©Daphne Youree

JFは、作家が海外の読者や翻訳者、出版関係者と交流する機会も提供してきました。各国で交流を重ねた村田沙耶香氏は「翻訳されることを意識して書いていなかったので、(海外の方の)感想を聞いて気づかされることがあります。私がまったく行ったことのない国でも、深い共鳴を感じて(私の作品を)読んでいただけたことが、すごく不思議でおもしろかった」と語ります。「イギリスのイベントに参加した時は、『コンビニ人間』の主人公・恵子の気持ちがわかると言ってくださった方が多かったです。アメリカでは『日本の人は本当にこんなにまじめに働いているのですか?』という質問もありました。同調圧力の中で働いている姿がすごく日本的だと思ったのかもしれないですね。いろいろな感想が聞けておもしろかったです」

コロナ下では、JFはオンライン翻訳家座談会シリーズ「More than Worth Sharing」を制作、日本文学の翻訳者同士の交流の様子を配信しました。第5回では『コンビニ人間』の5か国の翻訳者たち(写真中央画面内)が、それぞれの言語で作品を朗読したほか、翻訳が難しかった部分や各国での翻訳版の反響などについて、作者の村田氏(写真右)や座談会コーディネーターの沼野氏(写真左)と語り合いました。

翻訳出版が生み出すもの

「以前は、自分の作品が日本国内で読まれることしか想像していなかった。私は『本は楽譜で読者は演奏家』と教わったのですが、最近では、自分が書いた楽譜をまったく異文化の人も演奏してくれるかもしれないと、楽しい想像をするようになりました」と村田氏。1冊の本が翻訳され、さまざまな国の人の手に届く過程で起こる相互作用、読むことから得られる他者への想像力や異文化への眼差しは、文学がもたらす国際交流といえるでしょう。沼野氏は言います。「文学というのは、人間が言語を使って作りだすもっとも精密な創作物のひとつ。外国語で書かれた文学をとことんまで理解して翻訳するという行為は、もっとも困難であり、なおかつ、最高の国際交流だと思っています」
ふと手に取った1冊が、あなたを新しい世界に連れ出してくれる。JFは本がもつ力を信じています。

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